大腿神経麻痺のリハビリ生活日記

2017年3月8日、人工股関節の手術で、大腿神経麻痺となりました。日々強くなる痛みと痺れ、24時間片足を電気風呂にいれているような地獄の苦しみと、沸き起こるような中心部からのしびれで夜中に何度も目が覚める日々に耐えながらも、リハビリしています。看護師の私がなぜ?自分の勤めている病院でどうしてこんなことに?なぜ私なの?時にくじけそうになりつつも、周りの人たちに助けられながら生活を送っています。術中の過誤による大腿神経麻痺は大変珍しく、ブログがほとんどありません。是非「コメント」をお聞かせください。お返事いた

昔の出来事①

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↑息子が疲れてリビングのソファーで寝てしまった(^-^;

 

毎日、身の回りの事をやってくれているので、つかれたんでしょうね。

かわいそうになりました。

 

一緒にテレビ見ていたのに、いつのまにか、こんな狭いソファに寝てるなんて、久しぶりの光景です。

 

洗濯したり、ごはん作ったり、ゴミ出ししたり、高校生でよくやってくれてると思う。感謝です。

 

朝は自分で起きて、自分で学校にいくし。

花嫁修行ならず花婿修行です。

今は男も料理、洗濯、掃除くらいはできないとお婿にもらってもらえないからね。笑 

でも、ありがたいです。

 

家族は見方、いつでも心は一緒。

いろいろ子育てに悩んだことが多くて、大変だった頃を思い出しました。

 

この子は小学生に上がった頃、2年生になるまで教室にいませんでした。

学校の図書室にいたのです。本が好きで教室のようなざわざわするところが苦手で授業は受けたことがありません。

体育では体操着に着替えず授業はでない。なので体操着で登校したこともありました。

忘れ物も多く、連絡帳は書いてこないので隣の女の子にずいぶんお世話になりました。

 

習い事をさせても「お母さん、息子さんは皆と一緒にやれませんのでそろそろどうでしょうか?」と水泳、野球、塾をやめさせられました。

 

2年生のとき河本先生という女性の教師が担当して変化があったのです。

まず、教室にいない原因を確認して、席は黒板の前で端にしてミニ図書館を作ってくれました、棚を作ってもってきてくれて好きな本をおいてくれました。

息子はそこで本を読み教室からでることはなくじっとしてることができました。

一日の心の変化や出来事を専用にノートを作成して合計で20冊以上も先生が記入していました。特別学級にいくかいかないかとくとき、「大丈夫ですあのこはやれますから」と

そんなことは親ですら思えないことでした。

 

そもそも、息子は生まれたとき、急速分娩のせいで首から繋がる横隔膜神経を外傷され横隔膜神経麻痺となりなんと、右の肺がつぶれてしまったのです。

それに気がついたのは4ヶ月のときでした、熱があり小児科にかかったときにレントゲンをとったら医師が「ちょっと大変なことが起きている」とレントゲンを見たときビックリしました右肺が全く映っていなくて真っ黒でした。胸のところに大腸まで映っていました。

肺に大腸なんてあり得ないとおもいながら医師の話を聞くと、すぐさま緊急入院でした。4ヶ月で入院?しかも?片肺がない?よくわからなかったけれど、熱の原因は細気管支炎でした。

入院した夜から片肺のため呼吸がうまくできなくなり、あっという間に症状が悪化し先生から「今夜が山場になる。気を確かに持ちなさい」と言われました。私は気が動転しパニックになりました、あんなに自分がわからなくなったのははじめてでした。先生に懇願し「助けてくれるなら何でもします」と言って財布を差し出しました。ビックリした先生はこう言いました「このお金で治ったらあいつにおもちゃを買ってやってくれ」と。その後特別な治療をしてもらい命をとどめてもらいました。

その後も先生にお世話になり、いまでも覚えていてくれています。

死ぬような思いをした原因は出産時の分娩でした。

思い返したくもありません、本当に地獄の出産でした。

その当時は離婚した夫の薦めで都内の病院でした。自宅で少量の破水をして入院しましたが、6人ほど出産まちでした。わたしの内診をした先生はその時多くの破水をしたのをみて「なんだよベットがきたないよごれた、はやく変えろよ」などと言って怒っていなくなりました。内診によって多くの破水をした私はその後まもなく陣痛が来てしまいました。夫がようやく駆けつけて来たのですがなにも役に立ちません、痛くてのたうち回っていると助産師さんが来て「頭が出ているじゃないの、早く分娩だいにいかないと」と歩いてしかも三段くらいある登りだいを死ぬおもいで上らせました。ようやく出産できると思っていたところに、隣にも同じように出産間際のかたがいて、医師は一人。「何でこの日に俺ばかりなんだよ、冗談じゃない」と暴言をはいたのです。分娩台にいる隣の女の子も不安そうでした。

いよいよ出産の始まりです、医師が来て「もう吸引だなと」カップを付けて吸引分娩になりました。それはもうあっという間です。陣痛から3時間で生まれました。生まれたときは息をしていませんでした。仮死状態でした。泣くこともなく、私は不安でした。医師が吸引をしてようやく鳴き声が聞こえ安心しました。あとはどうなるのかわからずじっとしていると「すごいきれてるからこれから縫うけど、子供のために麻酔は使わないよ」とそのまま1時間半も地獄世界でした、麻酔なくあれだけ裂けてしまった、肛門まで裂けてしまったなん十センチもの縫合にぎゃーといいながらはじまりました。途中で「もういい」と隣の出産した女の子の縫合に当たりましたが、となりのその子は若いこで最初から我慢できなくで泣き叫び始めました。「もうみんなうるせーんだよ、もうやめた」とその場をあとにしてどこかに消えてしまったのです。ありえません本当に、出血して縫合を待っている二人の患者を前に消え去るなんて。助産師がきて「ごめんなさい本当になんとか先生をなだめてきますからね」と言って、しばらくしても どってきました。医師が「なんだよがまんできるのかほんとに」といってまた縫合が始まりました。終わったあとの出血量は1200ml以上でした。私はふらふらしつつも車イスで保育器にいる自分の息子を見に行きました。地獄の出産が今終わったのです。

出産は生きるか死ぬかと言われることがありますが、死ぬ地獄を味わいました。

でも、その先生はあとから問題があり署名活動でやめさせてくれと言う苦情があったそうで病院をやめたそうです。今は千葉の野田市にあるところで開業をしていますが、もう関係ないです。だけど絶対に忘れない、あの時のあなたの態度、言動すべてぜったいに許せない。たぶん死ぬまで。

こんな出産をしたから、私は二人めなんて生みようがありません、そしてその後の子供の病気、手術のせいで夫婦なかも壊れました。

そのあともいろんな事がありました。

 

きょうはもうもう無理。あの頃のことをおもいだすと気持ちが悪くなってきてしまいました(´_`。)゙

 

続きを次回書きます。